鍋茶屋の歴史History

「楽 處 隋」(ずいこらく)…
気楽に楽しんでもらえる処

創業

新潟の繁華街、古町八番町を折れて、東新道の通り(現 鍋茶屋通り)に入ると、私どもの店、鍋茶屋がございます。
明治維新の22年前、弘化3年(1846年、12代将軍家慶の頃)に、高橋谷三郎が店を開いたと伝えられております。鍋茶屋のしるしになっている亀甲型は、初代が創案した、すっぽん料理に由来しております。

このころの新潟の町は、信濃川と阿賀野川の二大河川によって、信州、上州、奥州と深く結びつき、新潟港は船の往来が栄んな町でした。町の繁昌と花街の繁昌とは密接な関係があり、そのころの新潟花街の様子については、豊後大掾(だいじょう)の日記「筆満可勢(筆まかせ)」に当時の新潟のことが記載されています。

「(新潟は)女朗、芸者色白く美しく、着物などもずいぶん相応の品にて、櫛、こうがい十二、三本ぐらいさす。当所に芸者五百人もある」

幕府が長岡藩から新潟を引き取ったときの新潟の男の人口が、老壮若取りまぜて10,952人(男女計24,431人)ですから、男の数にくらべて、芸者500人はなんとも多い。新潟の町人のみでなく、越後の国内外からの人の出入りが、港を中心にして大変多かったという証拠になるでしょう。

こういう活気の中で、鍋茶屋はスッポン鍋を売り物にする店として始められました。当時、日本は各地に黒船が現れ、不穏な空気もただよい出したころですが、町人町の新潟には攘夷と開国を争うような荒々しい様子はありませんでした。
谷三郎について付け加えておきましょう。店の言い伝えでは、この人は良いネタがないと、すぐに臨時休業するような、職人はだの人だったということです。

初代の光栄

鍋茶屋の初代谷三郎は明治19年に世を去っていますが、その谷三郎か生涯最大の光栄と思ったのは、明治天皇来県時の料理を調進したことではないでしようか。このことは旧新潟市史にも次のとおり記載されています。

「明治時代に巨然として名を成せるものに鍋茶屋あり。
  =中略=
特に明治11年9月聖駕当地にお成りに際し、18日を以て右大臣、参議、宮内卿、輔、少将、警視、侍医、侍輔の諸公、及び本県今を召して御陪食仰付けられたる折和料理は白勢成熙方(当時の名家)へ御命じさせられ、白勢より鍋茶屋(高橋谷三郎)方へ依頼し、会席仕立に調進し、主上の分は右料理と同じように内膳課に調進し奉りし光栄を有せり」

明治天皇はまわりの進言もあったのでしょうが、民情視察と、あわせて天皇制の浸透を図るため、維新間もないときから国内巡幸をはじめておられました。最初が1872年(明治五年)の西日本、ついで1876年(明治9年)には東北・北海道、さらに1878年(明治11年)になると、新潟を含めた北陸・東海地方御巡幸と続くわけです。なにしろ随行には右大臣岩倉具視以下参議兼大蔵卿大隈重信、参議兼工部卿井上馨など主なものだけでも46名、総勢では800人を数えたというから、準備する側も大変だったでしょう。

一年に二度の類焼に泣く

新潟のまちは、この年火事が多くて、若狭屋火事と、9月4日の大火と、この年大火ばかり二度ありました。若狭屋の方が1,280戸、9月の火事が倍近い2,120戸焼いているが、9月の火事は古町四番町から東中通、旭町、大畑方向へ燃えたのに対し、若狭屋火事は古町八番町から万代橋方向へ、当時の繁華街、ビジネス街を焼いたから、損害は若狭屋火事がずっと大きいといわれました。

火事の原因は女中が火種をひっくりかえした不始未で、若狭屋の主人のお角ねえさんは、出火当時座敷がかかって鍋茶屋にいました。直接の責任はないようなものですが、とても新潟にはいられないから、東京の新橋へ行って、あらためて芸者に出て、評判はよかった、といわれています。

さて、鍋茶屋は火事のあと、古町八番町から古町五番町の鶴揚楼のあとへ移って行きました。鶴揚楼は「三会」とも呼ばれ、「ニ会」と呼ばれた湾月楼とともに昔は大きな料理屋として知られました。
ところが鍋茶屋は、移ったところでまた9月4日の大火事に会い、さすがの二代目高四郎さんも“一年に二回も火事に会うなんて、もう料理屋はこりごりだ”といったようですが、初代の夫人がまだ元気で、“どうしても再建するんだ”といって、銀行から二万円だか、三万円だか借り、二年後の明治四十三年にりっぱな鍋茶屋を作りました。

※当時の二万、三万は、いまの何億にも当たる大金ですから、もっぱらまちのうわさになりました。なお鍋茶屋はその後昭和十三年、三代目高四郎による増築などを経て現在に至っています。

古町と奇人、粋人

明治、大正、昭和と、新潟の経済は繁栄を重ねました。それとともに古町花柳界も全盛を極め、各界各層の有名人たちがその舞台に踊りました。

皇族では、大正初期の閑院宮、昭和前期の東久邇宮盛厚殿下などの名前が浮かびますが、新潟を管内とする第二師団長(仙台)を勤めた盛厚殿下の名前は、とくに鍋茶屋には忘れがたいものがあるようです。
というのも、鍋茶屋の全盛を築いた三代目谷三郎の一子、一郎が昭和十五年、四十三歳で早逝しました。次代への夢を一郎に託していた三代目はがっかりして一時は廃業をも決意したのですが、そのとき「鍋茶屋は高橋個人のものではない。日本の鍋茶屋であり、公のものである」とさとして、廃業を思い止まらせてくれたのがこの宮様だったからです。

戦後、民選知事の時代になりましたが、初代、岡田正平は、その磊落な性格もあって、古町花街の人気者でした。つけ加えておきましょう。
古町花街は、徳川時代も明治以降も、多くの文人に愛されました。頼三樹三郎や寺門静軒については徳川時代、その後では菊池寛の名が著名です。
菊池と新潟花街の緑は競馬が取り持ったようで、菊池は昭和の初めごろから当時関屋にあった新潟競馬場に、よく姿を見せるようになったといいます。同時に花街のひいき客にもなり、特に鍋茶屋に近い待合「玉屋」(昭和三十年代前半料亭に変わる)を可愛がっていたようです。

菊池の縁で久米正雄、大仏次郎、佐々木茂索、川口松太郎、吉川英治など、日本の文壇を背負って立つ文士の人たちも、新潟花街に出入りするようになりました。戦後になると、吉田元総理の子、健一も、師匠格の河上徹太郎に連れられて、 古町へ遊びに来るようになりました。

こうした華麗な人脈に一役買ったのが時代時代の名物芸妓で、戦前から戦後にかけて「広子、姫子時代」といまに語り継がれる名妓が登場。戦後では、まり子、寿賀子、幸子の三人による市山流の相川音頭の組踊りが話題となり、花柳界の大きな財産となりました。十年前に新しい柳都振興株式会社の振り袖も加わって、現在に引き継がれています。
古町芸妓の芸熱心さは、芸能振興に顕著として、おしげ、力弥、咲弥の三人が県知事賞を受賞、現役では、清子、小そのが市長賞を受賞していることからも明らかです。その芸はますます冴え、古町花街を支える大きな力となっています。

「鍋茶屋ものがたり」より抜粋

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